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東京高等裁判所 昭和47年(う)859号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

〈前略〉所論は、被告人が自車を後退させるに当り、(1)被害者我妻幸司の所在位置を左方サイドミラーで確認できたのにこれを怠つたものである(控訴趣意第三)、(2)平熊喬は被告人に対し、ブルトーザーの運転席から被告人車の後方を向き片手を二回振つて後退に支障がない旨の合図を送つた事実はない(控訴趣意第一)、(3)かりに平熊が被告人に対し、右のような合図をしたとしても不適切な合図で、これに従つたことにより被告人の過失が否定される情況にはない(控訴趣意第二)、と指摘し、これに反する認定をした原判決には、判決には、判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認があるとする。

よつて、順次これを検討することとする。

(一)  司法警察員作成の実況見分調書(昭和四十五年十一月三日付)によると、被告人車が本件工事現場の道路掘さく部分に後退を開始した地点と道路東側端との間の距離は明らかではなく、原審の証人平熊喬の供述によれば、同人が本件工事現場の東側道路側端寄りに停車したブルトーザーの位置から西方内側へ四十センチメートルないし五十センチメートル離れた位置に被告人車が位置していたというだけで、必ずしも正確な位置はとらえられていないのである。そして、当審で取調べた司法警察員作成の実況見分調書(昭和四十七年三月二十日付)の写真によれば、右ブルトーザーと同一型のブルトーザーを本件現場をほぼ再現した現場の道路東側端に接し平行して設置し、これから五十センチメートル離し平行して被告人車を置いたうえ、本件当時我妻が衝突された地点を再現したうえ、左方サイドミラーで運転席から後方を見ると、右の衝突地点を見とおしうるようであるが、右の写真は被告人自身が運転席に坐つた際の目の位置の見とおし状況を撮影したものであるか否か明らかではない。そもそも被告人車がブルトーザーから正確に五十センチメートルの位置にいたのかどうかも前記のごとく明らかではなく、また、被告人は当審において、昭和四十五年十一月行なわれた右実況見分当時警察官も当時の被告人の運転席の位置からは我妻の所在は後方死角内にあつたことを認めていたとも供述しているのであつて、これをもつて所論(1)指摘の事実を認めるには足りず、また右事実は訴因において主張しているとはいえない事実に関するもので、到底(1)の所論は採用できない。

(二)  証人平熊喬の原審の供述中には、(2)の所論で指摘するような個所があり、同証人の供述は全体として所論(2)にそう部分が多いが、その中にあつても、同人が本件事故発生直前に被告人と顔を合わせて合図をしたかも知れないというように、断片的ではあるが右の所論に反するごとき事実を供述し、捜査時においても右と同様な供述をしていることをうかがうに足り、本件当時、砕石、石材の本件現場への到着が遅れたため平熊らの作業グループの前夜来の作業時間が平常よりも延長されていて、作業終了を同人らが急いでいたこと、そのため平熊は道路掘さくによつて生じた車道との断差個所へ砕石を入れて被告人車の後退を容易にするためブルトーザーでこれをならす作業が終るといくばくもなくして急いで道具の片付けにかかつていること、その取り片付中に被告人車が後退ブザーを鳴らして近くを後退していくのを知りながら、あらためて何らの誘導もしていないことも記録上認められるのであつて、平熊において原判示のように被告人に簡単な合図を送つて後退を許したような特別な諸情況がうかがわれるのである。

この他に、所論は、平熊が本件以前に被告人車を誘導したことがあり、その際は被告人車の後方約二メートルの地点に立つて、声をかけながら手を振つて合図をして被告人車を発進後退させ、それにつれて平熊も移動して後方のフィニッシャー(道路にアスファルト・コンクリートをしきならす機械)に被告人車を安全に誘導して連結させているから、単に片手をふつただけで被告人車の後退を誘導するようなことはありえない、とするが、被告人が本件以前に平熊から誘導をうけて後退したこと自体証拠上明らかではないので、所論は前提において理由がなく、所論はまた被告人車の後退はアスファルト・コンクリートをフィニッシャーに下ろすためにこれに連結するための後退であり、誘導員による綿密な誘導によつてのみその後退の目的を達しうるのであるから、原判示のような簡単な誘導はありえないというが、所論のような方法による被告人車の後退の誘導が作業目的上適切であるとしても、これが絶対無二の方法とは断定し難く、前記のような特別な諸情況の存在をもあわせて考えると、このことから直ちに原判示のような誘導がありえないとはいえないし、もともと作業目的の点からみた後退方法の適否と業務上の過失の存否の点からみた後退方法の適否とは同一に論じえられるものではない。所論はさらに、平熊は職務にもとづいて被告人車の後退を誘導する義務はないから、同人が被告人車の後退を誘導することはないともいうようであるが、平熊が本件現場において原則として自動車の誘導に当つていた事実は同人の原審証人としての供述からも明らかでその理由のないことは多言を要しない。所論はまた平熊喬作成の申述書に原判示に符合する所があることから、その作成経過においてその信用性がないこと、被告人の捜査段階以来の供述に一貫性を欠く点がある点をとらえてすべてその信用性がないことを主張するが、前者は証人佐藤豊蔵の原審の供述によつてその信用性が裏付けられ、後者については、その主要な点に矛盾不一致があるというのは独自の見解に立つもので、いずれもとることができない。

これを要するに、原判決が証拠の取捨判断を誤つて、所論(2)のような事実誤認をした点は認められない。

(三) 記録によると、本件は、車道幅員約14.5メートルの車道の東側寄りの長さ約87.4メートル幅約8.3メートルの長方形の区域を保安灯二十八本、保安柵九個、点滅信号灯二個で区切り、作業員以外の交通をしや断した道路改修工事現場内の事故であること、作業員らはほとんど道路掘さく部分南端付近に位置した被告人車とは約五十メートル離れた反対側の右部分の北端付近に集つていたこと、被告人が自車を後退するに当り、左右のバックミラーをのぞき、運転席右側の窓から首を出して後方の人影の有無を確かめたが、これを認められなかつたこと、被告人は工事責任者と思われる平熊が被告人に対し、工事現場北方(被告人車の後方)を向いたうえ手を上げて振り後退を指示したので後方の安全を信じて後退したものであること、後退に当つてはこれを警告するブザーを鳴らしていたこと、被告人が本件現場にアスファルト・コンクリートを運んできたのは二度目であり、平熊が平素厳格な誘導方法をとつていたとしても、被告人は本件現場における自動車の後退についての誘導方法について十分な知識があつたとはいえないこと、被告人は作業現場によつて後退の誘導の仕方も異るので、本件現場の作業員である平熊の指示を重んじて、これに従つて後退したものであることが認められる。

さて、被告人の運転した自動車は大型貨物自動車(ダンプカー)であつて、後退の際には後方に死角を生ずることが大であるから、その死角内における危険を解消して後退する必要があるが、前記認定の諸情況からすると、当時作業員以外の者が入ることはない工事現場で、死角内に入る危険があるのは作業員だけであり、当時作業員のほとんどは被告人車の後方近くにはいなかつたのであつて、工事責任者とみられ作業員の現場の動向に通じている平熊が死角に当る方を向いて後退に支障がない旨の合図を送つている以上、さらに同人が被告人車の後方に移動して誘導をしなかつたとしても、被告人車の後方の死角内の危険は解消されたものと信じて、被告人の運転席で可能なかぎりの後方の安全確認をし、後退を警告するブザーを鳴らして後退する等の措置をつくしていれば、被告人が自車の後退に当つて払うべき業務上の注意義務をつくしたものと解すべきであるから、(3)の所論もとることができない。

右に検討した結果によつて明らかなとおり、記録および当審の事実取調の結果に徴すれば、原審が所論にそう証人平熊喬の原審における供述よりも、被告人の供述等に信をおき、結局本件は犯罪の証明がないものとしたのは相当である。

所論はすべて理由がない。

よつて、刑事訴訟法第三百九十六条により本件控訴を棄却し、主文のとおり判決する。

(八島三郎 吉沢潤三 中村憲一郎)

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